|
どの子供も 親二人! |
|
English
Français
Español Italiano 한국어 |
|
日本の外務省、警視庁、裁判所がこぞって外国人親に対し差別2006年6月2日著
私と織田恭子の出会いは、彼女がミシガン大学でTOEFLの受験勉強をしていた1989年9月のことだった。11月になると彼女は資金不足のため日本に戻らなければならないと言い出した。クリ スマスを間近にひかえ、私は恭子にプロポーズし、彼女はそれを受け入れてくれた。その後、彼女はいわゆる「花嫁学校」に行くと言って1年ほど帰国した。今となれば疑わしいと思える最初の出来事であったが、私は「花嫁学校」なるものを文化の相違によるものと考え、まさか間もなく自分の妻になろうという女性が自分を欺くなどとは決して疑いもしなかった。 1991年1月に東京で結婚した。振り返って思えばすぐに疑ってかかるべきだったのだろう。民事結婚をすませた数分後に恭子は家計は一切自分がやると強く主張したのだ。そして6月ハワイ諸島で過ごしたハネムーンでは宝石を買ってくれとしつこく要求し始め、様々なことで癇癪を起こした。新婚の私はそのときも二人で解消しなければならない文化の違いがあるだけのことだ、彼女も母国を離れることに不安を感じているのだろうと受け流した。 米国本土に戻り、ミシガン州の私の家族の近くで暮らす結婚生活が始まった。恭子の癇癪はこの頃には激怒に変わっていたが、特に大きな休日があるとそうであったのを覚えている。私の家族に会うのを避けるため、恭子は何か他の計画を立てようとしきりに言うのだ。反対などしようものなら彼女の怒りは手に負えないくらいになった。ある年、クリスマスを目前にして彼女はあっさりと日本に帰ってしまった。ひとりでだ。この時も私は彼女がただ甘やかされて育ったためとか、家族が懐かしくなったからだろうと思って受け流していた。それにしても、自分の好き勝手にする彼女のやり方には懸念を生じ始めていた。 恭子がミシガンをひどく嫌っていたため、1997年に私はオレゴン州に引越すことに同意した。ほぼ20年来私が設計してきた家をその地で建てようと思ったのだ。この頃恭子のお腹には息子のタコダ・ウィードがいた。
オ レゴンでは家を購入した。その家は新しい家が完成したあかつきには貸家にするつもりであった。最初は恭子の両親がプレゼントとしておよそ3分の2を支払って助けてくれることになっていたが、それが三者間の共同事業という形になり、最終的には借金という形になった。私は新しい家の建築に忙しく、仕事をしていなかった恭子が全て手配したことだ。私としては彼女が私たち二人の共同の利益を考えてくれているものと信じ、グレードアップしてかなりの投資をした。ところがその後間もなくその家を売却することになり、お金は彼女の両親に返し、我々はアパートに引越し、そこで2001年3月18日娘のティアナ・ウィードが生まれた。恭子の「両親のお金」は彼女と母親名義のアメリカのある銀行口座に入ったが、その口座の存在については父親さえ全く知らなかったのである。 オレゴン州に引越す少し前に恭子はノースウェスト航空の乗務員の職を辞めていたが、家の建築工事を口実に年に3ヶ月から6ヶ月は日本で過ごしてこちらにいなかった。2001年になって、完工する直前に私は新築の家に全てを移した。運悪く業者との問題があり7月に恭子が戻るまでにキッチンのカウンターが仕上がらなかった。彼女は怒り狂い、帰ってから1ヶ月も経たないうちに荷造りし、夏の大半を過ごしたばかりの日本に戻り更に3ヶ月をそこで過ごした。私たちの関係はどこかものすごくおかしいところがあり、助けが必要だと私は実感するようになった。これは単に文化的な相違などというものではありえないと。[このリンクとこの後のリンクはウェブマスターが追加したもの] ようやくカウンセリングを受けることにしたのは2002年のことだった。私としては安定した結婚生活を望み、一緒に二人の子供たちを育てたいだけであった。だが恭子には躁鬱病の徴候が現れていると思ったし、また本当のことが言えないという問題があると私は確信していた。カウンセラーたちが言うには、恐らく彼女は家族にそういうふうに育てられたのであって、治るにしても長期戦になるだろうということであった。ウソをつくという癖は治りにくいそうだ。激怒するのはウソを見抜かれそうになったときの 防衛機制なのだ。 結果として私は恭子自身また彼女の言うことをもはや信頼することができなくなった。恭子が料理した食事さえもまさに喉を通らないところまで物事が急速に悪化したのである。 この頃すでに恭子は離婚するとか別居するとか言って常に脅かしていた。私はこの関係から逃れ出るしかないと感じ、子供たちのために(少なくとも一時的でも)いい環境の中で育つことが最善であると決心したのである。このことを事前に知った場合の恭子の反応を恐れ、2003年2月のある晩、私は彼女の外出中に黙って家を出た。子供たちとは質の高い関係を保ち、彼女が変化に対応し続けて生活していくための援助は当然するつもりでいた。ところが残念なことに私が家を出た後のある日、タコダ・ウィードを迎えに行って学校に連れて行くためと所持品や工具一式を引き取るために家に行ったところ、恭子がそれを乱暴に止めようとした。トラブルになると直感し私は彼女から離れようとしたところ、彼女が手に持っていた工具で私の足をすくったため、二人とも床に倒れた。弁護士のアドバイスで両者ともに警察に調書を出した。2,3日後彼女は虚偽の陳述書を使って差止命令を取り付けた。それ以来私は法的に戦わなければ子供たちと会うことができない。 離婚手続き中のことであるが、恭子の母親である織田美代子から借りた未返済の家の借金(これはずっと前に返済していた)をはじめ、恭子の家族から借りたお金の約束手形を恭子がいつの間にか手に入れていたのである。そのほとんどは私が見たことのないもので、いくつか(1,2件)は恭子だけが署名したものであった。幸いに判事がそのうちの一つを見抜いてくれたが、それは結婚のお祝いであったものだ。 離婚が成立する少し前、タコダ・ウィード(当時5歳)がある日出し抜けに「ボクにはね日本人のパパ “おとうさん” がいるんだよ」と私に言った。これで恭子がアメリカよりも日本で時間を過ごしたがる理由が分かった。数年間の結婚、そしてカウンセリングの後に、ようやく私たち夫婦の問題は単なる文化の違いではなく、また恭子の家族の価値観や倫理道徳は私のものとは相容れないものであることに気がついた。実に恐ろしいのは、恭子とその家族は同じ類の人間で、そういう人間が私の子供たちを誘拐して育てているということである! 離婚が成立したのが2003年の暮れであった。裁判所は恭子に子供たちをつれて日本へ移ることを許した。親権考課者の推薦どおり、裁判所は電話、メール、そしてウェブカメラによる接触、更に米国と日本において年3回の休暇を共に過ごすことを含み、私に対して無制限の接触を許す命令を出した。そのあとの出来事はまさに寝耳に水であった。 2004年1月16日にアメリカを去った後間もなく、恭子は子供たちの父親である私との接触、連絡、裁判所から命令された面接など一切を絶った。これは裁判所の最終的な離婚判決の一部である親権と面接権に関する裁判所命令に明らかに抵触していた。私だけではなく、恭子はアメリカにいるタコダ・ウィードとティアナ・ウィードの親戚や友達との接触や連絡も一切絶ったのだ。 2004年4月28日に私は強制執行措置を求めて裁判所に戻った。裁判所は配偶者に対する生活費援助を打ち切った。 日本が1970年に調印した民事または商事に関する裁判上及び裁判外の文書の外国における送達及び告知に関するハーグ条約に基づき、私の弁護士は公的機関を通じて三度に渡り裁判所文書を母親に送達しようとした。日本では外務省がハーグ送達条約に基づき裁判所文書の送達を受理、執行する権限のある実体として指定されている。同省は地元日本総領事館を通してその度に文書を返送して来た。最初はただ以下の内容を伝えてきた。
前妻がアメリカで生活していた頃、日本に帰ると母親のところに滞在していたので最初は母親の住所を使った。外務省がその住所への交付を拒否したため、他の方法で新住所を確認したところ、母親と同じ近所にいることが分かった。ハーグ送達条約を使ってもう一度試みたところ、今度は同じような文面で返送されたが、最後の文が以下のように変わっていた。
このとき、子供たちとの音信が途絶えて1年半以上経っていた。三度目の試みは最初とほぼ同じような説明と共に返送されてきたが、最後の文がなくなっていた。
その度に東京地方裁判所の「証明書」(送達書類)上に記載事項があり、それは一様に裁判所が送達すべき文書を郵便で送っただけで、「郵便局の保管期間」が経過するのを待って配達不能として文書を送り返してきたことを示していた。 日本はハーグ送達条約の第10条(b)及び(c)項を拒否した。つまりハーグ送達条約による以外では、私に残された唯一の代替手段は郵便を使うことであった。しかも当局は自らもっぱら郵便を使っており、郵便の場合、郵便物を単に拒否すれば受取人は送達を拒否することができるらしい。これでは受け取りを渋る者に対して外国の裁判所文書を送達することが不可能になる。日本政府と日本の裁判所はハーグ送達条約を利用して国際的裁判所文書の交付を容易にするのではなくむしろ妨げていると思われる。 当然のことながら米国裁判所は他の送達手段を許してくれた。そこで我々は恭子の兄弟や弁護士宛に郵便、電子メール、ファックスを使って試みた。電子メールとファックスは正確に確認するのは難しいが、我々は全ての試みについて記録を残した。(電子メールは当然拒否されなかったし、ファックスは送信途中で中断されたものもあるが受信されたものもあると思われる。)ファックスによる試みの一つは日本の弁護士宛のもので、この弁護士は以前私についての情報を求めてきたことがあり、織田恭子の代理人であることを示唆していた。同弁護士は本件に関し織田恭子から依頼を受けていないと主張し書類を返送してきた。 送達の代替手段として郵便を使おうとしたとき、以下の日本語の記載がついて戻ってきた。
見たところ今度は日本の郵政公社と警視庁が裁判所と協力し、米国裁判所からの文書の交付を阻止する命令を出したようである。明らかに当局側は内容物が文書にすぎないことを知っていたわけで、そうでなければ郵政公社と警察と裁判所がこのような協力をすることはまずなかったであろう。差出人が危険人物であるというは更にばかげている。私の弁護士と海外における法的文書の送達会社としてよく知られているCrowe Foreign Services Corporationが直接送ったものであるからだ。従って、日本政府(外務省)は私がハーグ送達条約を利用することを妨げているのみならず、日本の警察と裁判所は私が唯一の合法的手段によって書類を直接届けることをも阻止しているのである。 離婚を担当した裁判所は2005年7月21日、子供たちについて法的にも物理的にも完全なる親権を私に認めた。これは、タコダ・ウィードとティアナ・ウィードが人生のほとんどを過ごした場所、つまり常居所のある場所で決められたことであり、どこか遠方の管轄権が国際的に認められていない国で起きたことではない。同裁判所は援助義務についても一切停止し、関連する裁判所侮辱罪で日本人母親に対し逮捕礼状を発した。しかし私の弁護士が言うには、送達の代替手段を「使わざるを得なかった」ため、この判定は日本の家庭裁判所においては無効であろうということである。しかしならがら外国人の親にとって、子供を誘拐した日本人の親に裁判所文書を送ることのできる方法は、一切ないのである。 日本政府、警視庁、そして裁判所は自ら都合のいい手続きを設け、私が日本の裁判所で子供たちを取り戻そうとした場合には、裁判所がそれを拒否できるようにしている。ハーグ送達条約の要件に適合する公判や法的手続きの告知について母親は送達を受けたことが一度もないのだ。従って私が日本の裁判所で負けてしまうのは明らかである。これは、日本の外務省、警視庁、そして裁判制度が見事に協調したと思われる、外国人の父親に対する明らかな差別扱いである。 日本政府は、織田恭子が私の子供たちを誘拐する手助けをしている。私は子供たちの長期的な精神衛生状態について深く危惧している。子供たちが洗脳され、数知れないウソをつかれ(私が死んでいるなど)、また常にアパートを転々としているのではないかと心配である。子供たちは今、政府に幇助されている指名手配中の逃亡者と共に生活しているのである。私の子供たちは日本の外国人親に対する人種差別によってアメリカ人としての生得権を拒否されているのだ。
ハーディ大使が2005年12月3日、外務省(MFA)国際法局長小松一郎に指摘したとおり、「...最も弱い者、つまり子供たちがどういう扱いをされているかを見れば、その社会について多くを知ることができる。」 (タコダとティアナの父親) Timeline
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
このウェブサイトの情報は公共の利益に関するものであり、 置き去りにされた親の持つ問題について一般の認識を高めるために、 啓蒙と情報提供を目的としています。特に明記のない限り、 このウェブサイトのライター及び翻訳者は、弁護士でも翻訳の専門家でもありません。 重要事項に関してはご自分の弁護士にご確認ください。 |
||
| 最終変更: March 19, 2007 | Copyright © 2003-2006 | お問い合わせ、どうぞ |